ぐったりと体力がからきしなくなって、沈むように眠る月の身体を濡れたタオルで清めながら、魅上は月の顔にかかった髪の毛を彼の耳にかけた。苛酷な行為の後とは思えぬ、はじめから何もなかったかのような、透きとおるような美しさを放つ静謐な神の眠り姿に、魅上は奇妙な感慨に耽っていた。
つつ‥と自分がつけた噛み痕とキスマークに指を這わせる。昂揚感と虚しさが交錯した。『弥を殺すのが早い』魅上はふいにそう思った。
「ミサを殺すつもりか」
静かだが言い聞かせる声がして、はっと魅上が顔をあげると、薄く目を開けた月が混じりけなく彼を見つめていた。触れたことで起こしてしまったのか。他者とのコミュニケーションが得意らしい神は、人の心の機微を感じ取る能力に長け、勘がよかった。自分の心根を見透かされた。『なのに、いちばん見透かしてほしい部分は全く感知してくれない……』魅上はなにか居心地の悪さを覚えた。
「いえ、そんな……弥の寿命は短いですし、考えていませんよ……本気では……」
伏し目がちに魅上が答えると、月は気だるそうに瞼を閉じ、ひたりと言い添える感じで言った。
「殺すなよ」
「ええ……」
そう言って魅上は沈黙する。月の言葉は別に弥へ肩入れしているわけではない、そう理解できていた。彼は自身を慕い、愛す者を、煩わしかろうが特段殺す事情ができない限りは何だかんだ自身のテリトリーに存在することを許可していた。それは育ちによる優しさのような、または、生来孤独を知らぬ育成環境によって、無意識に誰かが傍にいる環境を作り出しているのやもしれない――月のそんな気質を節々から魅上は垣間見ていた。
『だが私が弥を殺したとしても、神は叱責するだけだろうな』なんとなく思いを馳せた。神は弥へ情が湧いているわけではないのだ。だが、その存在を受け入れている。『私と弥を天秤にかけたとき、目を持たぬ者を取ることに神の利益はない……』絶対的な確信があった。『やはり性別、性別だけが……』魅上は自分に取り巻く昏い感情が敗北感なのかなんなのか理解できないでいた。『神は何故、男としての尊厳などにこだわるのか……女たちを毛ほども愛していないのに』幾度考えようとも魅上にはその理屈がわからなかった。『神がそのこだわりさえ棄ててくだされば……やはり弥が傍にいなければ、神はそんなことを意識しなくて済むようになるのだろうか……』
気づけば堂々巡りしてしまう思考を振り払うように、魅上は頭を軽く振った。
「……神、今日は泊まっていきますよね?」
瞼を閉じてはいるが寝ていない月へ、魅上は小さく声をかけた。本来は明日会う予定だったのだ。ならば、泊まっていってほしかった。返事はなかったが、魅上は立ち上がって風呂へ湯を張りに行った。
そこから戻ると、既に月の姿はなかった。
どうやら帰ったらしい。魅上は残念な気持ちになった。『別に、そんなに急いで帰らなくとも……』距離的にはまだマンションの傍にいるだろうが、追いかける気にはならなかった。『切ない。ともにいたいのに……』魅上は自身の胸がちくちくと痛む感じを味わっていた。
洗濯しようと思っていた月の濡れた下着もない。それを履いていったのだろうか? それに、まだ事後のシャワーを浴びていないのに身支度を整えて出ていったことを考慮すると、魅上の体液が月の中から垂れるだろうと簡単に想像できた。自身の内へ吐精されたものを再び意識するというのはどんな気持ちなのだろうか。神――……そう考えると、言い知れぬ昏い情感が魅上の中へ駆け巡った。『結局、神は私のことを意識している。この行動がその証左だろう。神は帰りの道でも私を意識せざるを得ない』幻みたいに消えた月が、その実、非常に肉感的な感じがした。消極的な思考と積極的な思考が交互に訪れて悩乱する。これは恋の苦しみなのだろう、魅上はそう感じていた。
それはそうとして、やはり月がいなくなってしまったことは名残惜しくてならなかった。先ほどまで月が寝ていたカウチソファを撫でさすり、まだ残っている体温の痕跡を確認する。『今日はいつもより、口づけが少なくなってしまった……』口惜しい発作に駆られた。魅上は座面へ顔を押しつけ、深く深く呼吸を繰り返した。まだ、ほのめく月の匂いを感じる。
どうすれば、神は私を十全に受け入れてくれるだろうか――なにか求道的な試練を与えられている気分になった。
「私だけにしてください。神……」
ぽつりと吐き出した言葉は、冷たい部屋に響いて落ちた。
月には、彼の穴から零れる濃密な精液を見て、きちんと自分の性は何であるのか、誰のものであるのかを意識してほしいと、魅上は強く祈り、願った。
END.
初出 : 2023.09.03